Masuk
ゾンビが、いる。
この東京に。もしかしたら、ドアのすぐ先に。
いるかもしれない。その現実に、玄関のドアノブに伸ばした自分の手が震えていた。
ガシッと後ろから肩を掴まれる。 ビクッと身体が飛び上がる。振り返れば
梅雨の外気とリビングの冷気が混ざり空気はひんやり淀んでいる。
玄関前。こげ茶のドア。銀色のドアノブが玄関灯を反射して、鈍く光っていた。ほんの6時間前まで何気なく歩いていたドアの《外》が、今やいつ死んでもおかしくない地獄になっていた。
行きたくない。胸がギュッと軋んだ。
「……怖いな……」「そうね……でも、行きましょう」
食料も水も僅かしかないのだ。 行くしかない。 「はぁ……はぁ……」 額から垂れる汗は緊張のせいじゃなく、夏なのに冬物コートを着ているせいだ。 冷たいドアノブに指を掛け、祈るように目を閉じた。 ──もしも、だ。もしも・・・・・・ゾンビに出会ったなら グッ、とドアノブを強く握り締め、背後で息を殺している美咲を思う。 ──美咲を守る。この《命》に代えてでも ゆっくり目を開き、言葉にはしなかった《覚悟》を込めて、美咲に告げた。 「……開けるぞ」 *※ドアを開く6時間前。
【6月20日(金曜日)19:47】
──ブルブル 寝落ちしたまま握り締めたスマホが震えて、俺は目を覚ました。 ──メッセージ1件。 19時47分。アプリを落としたスマホの待ち受けには、スーツ姿で腕を組む彼女の写真。
アイツと付き合い始めたころに「写真ないか?」と言ったら、秒で送ってきた奴だ。
後輩の
ノリノリでポーズを決める二人の光景が目に浮かぶ。
「さてと……最低限片付けるか」 呟きつつ、ギシッと鳴る安物のシングルベッドから腰を上げた。今日は金曜日。週末だからと油断して、スーツを脱ぎ、そのままベッドで寝ていたようだ。
床には散らばったジャケットとズボン。机の上には置きっぱなしのコンビニ弁当の空き容器とビールの空き缶。
男の一人暮らしなんてこんなもんだろう?
八畳一間のワンルーム。服をクローゼットに、ごみはゴミ箱に。仕上げに掃除機をかけ終えるまで10分も掛からなかった。
* ──ガチャ、ガチャ。──ガチャリ。
玄関のドアが閉まる音、直ぐに居室のドアが開いた。 「ちょっと、カギくらい開けておきなさいよ!」 開口一番、響く強気な声。合鍵を渡したはずだが、と思いつつ、視線を向ける。
仕事帰りの美人がそこにいた。しっかりと身体にフィットしたジャケットには女性らしいライン。
すらりと伸びる脚はタイトスカートに包まれ、一分の隙も無い。
セミロングの髪は緩やかに巻かれ、柔らかく波打つ。
頬にかかる一房が、彼女の勝ち気な美貌に柔らかさを添えていた。
美人、美女という言葉が似合う高嶺の花。そして、何の因果か、俺の彼女様だ。
「へいへい。残業お疲れ様。エース営業も大変だな」 視線の先、ニヤリと笑う美咲。ん・・・何か袋を提げている?
「契約取って来たわよ! これで三半期連続トップは確実ね! お祝いのケーキ買って来たわ」
「スゲェな」と思わず拍手する。
ふふんと鼻を鳴らしながら、彼女は当然のように冷蔵庫を開け、ケーキを仕舞った。
「で、ご飯は?」
「……帰って寝てたから食べてないな」
「食材使うわね?……って、何もないじゃない!」
冷蔵庫のドアが勢いよく閉まり、呆れた目線が突き刺さる。だが、すぐにため息を落とし、中をもう一度覗き込む。
「卵と玉ねぎ。あとウインナー? 最低ラインね」 手早くジャケットをクローゼットに仕舞い、台所に立つブラウス姿の美咲が、エプロンもせずに卵を割り始める。 ──まるで家主だなそう思って、俺はまた苦笑した。
* 山盛りチャーハンが、ローテーブルにドンッと置かれる。 「ふかーく感謝してから食べること! いただきましょ」「あぁ、作ってくれてありがとな。いただきます」
俺の部屋で男顔負けの勢いでチャーハンを食べる美咲を見ていると、ふとあの記憶がよみがえってきた。
──あの日、あの事件 美咲と拉致され、紆余曲折ありつつも力を合わせて、逃げ出したあの一件。もしあれがなければ、今も俺にとって、美咲はただの憧れの《同期》だったはずだ。
──絶対に秘密 そう誓わされた。だから、誰にも言わない、あのことは。
俺は彼女の弱さを知り、その奥にある輝きを知った。 そして、美咲は「アンタはやるときはやる男」と俺を評してくれた。 それが、きっかけ。 そして今、目の前でチャーハンを頬張る《美咲》がいる。 「何、じっと見てるのよ?」美咲が手の止まった俺を見て小首をかしげる。いや、と首を振りつつ、その想いは言葉になる。
「お前が彼女なんてな。今でも信じられんよ」笑うか、顔を顰めるか。彼女が迷っている。嬉しいけど不満。そういうことらしい。
スプーンを置いて、肩から力を抜いた美咲が言う。「完璧ってのは疲れるものよ。気が抜けないから。そして、いつしか気を抜ける場所が無くなっていくの」
「そりゃ、あたしは才能あふれた美人よ? でもね、完璧ではないの」
「だから、アンタがそこにいる。その自覚を持って、もっと精進しなさい」
「もちろんだ」と答えつつも、その意味が俺にはまだしっかりとはわからない。 アンタはアタシを分かってる。 言い方は違えど、美咲はなにかにつけてそう言う。抽象的で掴みどころはないが、何となくなら分かっているつもりだ。 だからと言って、コイツの隣に立つのは簡単ではないんだけどな! 「その意気はいいけどさ。アンタ今期何位よ?」「ん……3位だぞ」
「3位だぞ?じゃないわよ。早く2位に上がってきなさいよ、アタシが1位なのはいいとして、2位までは上がれるでしょ?」
こんな感じでエース営業様からコツコツ叱責を賜り、俺の営業成績は付き合い始めてから──ここ2年で急上昇していた。
(──最初は中間くらいを行き来していたんだぞ!?) と、そんな恥ずかしいことは言えない。「黒沢が2位だ。あいつも天才系だ。凡人枠なら俺はもうトップと言っていいんじゃないか?」
「言い訳せずに、上を目指す!」
このストイックさがコイツの完璧さを作っているのなら、隣に立つ俺もそれなりにならなければならない。
・・・まぁ、頑張るしかないわな。
「へいへい」 俺の返答にムーッと膨れていた美咲が萎んだ。 「ま、いいわ。ケーキ屋さんのケーキだ。しかも、3つある!
「アタシは2つ。アンタは1つ。文句ある?」「ありませんとも」
チョコケーキと赤いイチゴの乗ったショートケーキが2つ。俺はショートケーキを手に取った。
美咲に差し出されたフォークを受け取り、ケーキを一口。
どこで買って来たかは知らんが、甘くてとろけるように美味しい。一瞬で食べ終えた俺はやることもなく、「んっ~!」とケーキを交互に食べながら顔を溶かす美咲を眺めていた。
フォークを止めた美咲がケーキを見ながら呟く。 「凡人は天才に勝てない──みんなそう思い込んでる。でも、実際は数と粘り。天才は気まぐれだけど、凡人は積み上げられる。その差で勝てるの」 その一言は・・・。きっと、今の俺が最も必要とする一言。
「その芯を突く能力はどうやったら身につくんだ?数と粘りで届くとは思えんぞ」「アンタにもできるわよ。才能はあるもの」
──才能?
そんなもの、俺にあったか?はてなを浮かべた俺を面白そうに見つめてヒントをくれる。
「相手の気持ちを理解する。それを素直に受け止める。それは才能よ。根っこが掴めるから、一番効く言葉が浮かんでくる」 頭の中に、美咲に首根っこを掴まれて、押さえつけられる俺が浮かぶ。なるほど。心臓をズサズサと刺されるわけだ。
「……少し分かった気がする」 そういう俺をジト目で笑って、美咲は残りのケーキを口に運んだのだった。 * ケーキを食べ終え、満足げな美咲。お茶を一口飲み、どこか試すように俺を見つめてきた。
「ねぇ、悟司。金曜日の夜に美人の彼女がケーキを買ってきてくれたのよ。何か言うことないの?」「……あっ」
「ほら、何?」
「ありがと」
あれ、ミスったか。 「……はぁ。あなた、今、とても大きなものを逃したわ」「・・・?」
ジトッとした視線が突き刺さる。少しご機嫌斜めだ。俺の視線を確認して、美咲はさりげなく胸を寄せた。
──あ。 そういうことか。自分の鈍さが恨めしい。
「……なぁ、美咲、今夜、いいか?」「致命的に遅い!……まだ場数が足りないようね」
挑むような言葉とわずかに浮かぶ口元の笑み。叱責と甘さが混じった声に、胸が高鳴っていく。 「じゃ、先にシャワー入ってきて。アタシは後から入るから」 * 窓の外、車が走る音が小さく響く。それ以外にこの部屋を満たす音はない。美咲は俺の胸に頭を乗せている。濡れた髪が肩口にかかり、甘い匂いが漂っていた。
呼吸はもう整っている。けれど、その体温はまだ消えずに残っていた。
甘えるように美咲が、頭を擦りつけてくる。 ──あぁ、もうこのまま寝ちゃお そう、思った時だった。──ブルブル
震えるスマホ。
だらんとした美咲をゆっくりと脇に寝転がして、スマホに手を伸ばす。
画面が光る。──メッセージ1件。
23時53分
彩葉:先輩、これやばくないっすか!?
SNSのリンクが続く。タップして開いた。
『渋谷、20時。人間ってこんなんで動けるの?』動画付きだ。再生する。
*大通り沿いの雑居ビル。
脇道の中央に立つ男。
腹部から、ヒモのようにズルリと垂れ下がる血塗れの内臓。
画面が揺れる。誰かの悲鳴が響いた。
そいつは歩きながら、声の方向を探している。
そして、カメラに向かって走り出す。
カメラが酷くブレ、暗転。
*
心臓が一拍、乱暴に脈打った。全身に鳥肌が広がるザワザワした感覚。
まるで、背中に鋭い刃物がズッと一ミリ食い込んだよう。
ただの映像だと頭では分かっているのに、体が勝手に反応した。 胸を押さえ、ふぅふぅと息を吸う。 背中に寄り添う美咲の気配。咄嗟に、肩越しに美咲の顔を見る。
スマホ画面の明かりに照らされた青白い美咲。その目は大きく見開かれていた。揺れる瞳。こんな呆然とした美咲の表情、初めて見た。
だが、その揺れは一瞬だけのことだった。直ぐに焦点が合い、目が細くなる。
「今すぐ調べるわよ!」 その語気の鋭さに、俺は無言で頷いた。パソコンを閉じ、美咲もローテーブルに座る。「駐屯地に受け入れてもらえるか……これは賭けね。フェンスを乗り越えて入る。保護されている内に役割を見つけて軍内で価値ある人材になる」「今の時点で、自衛隊がアタシたちに危害を加えるとは思えない。保護される可能性は十分にある。入れてもらえないかもしれないけど……そのときはそのときね。諦めず侵入する手を探しましょう」──もし断られたら?そのリスクを指摘しようとして、だからなんだと言う答えを自分で得る。ここに残っても、受け入れられなくても、死ぬだけだ。動いて、受け入れてもらえるなら生きる可能性が繋がる。もはや、0ではないという可能性に縋るしかない。「問題はどう行くかだな」練馬駐屯地の最寄り駅『平和台』まで電車で15分。一瞬で行ける。・・・動いていればな。最新の情報で運休が確定した。ダイヤ調整は諦めたらしい。「……徒歩で行く」「護国寺から練馬までか?」頷く美咲。「それしかないわよ」──ゾンビがいる中、歩きで延々と?正直怖い。危険すぎる。心はそう言っている。「幹線道路は渋滞。車は無理。音が出るバイクもダメ。自転車はいいけど、警戒が疎かになる。タックルされたら転倒して死ぬ」「だから、静かに偵察しつつ移動できる徒歩移動しかない」しかし、美咲の言葉を頭で《理解》してしまう。それしかない。ならば、問題はいつ動くか?そして、どうゾンビと戦うか?スマホを傾ける。勝ち気な美咲の待ち受け画像に時刻が出る。──14時38分まだ明るいが、もうす
美咲を追って、クーラーの効いた室内に戻る。重く閉じられたカーテンの隙間からは、さっきまでの修羅場の音も届かない。快適ないつもの日常だ。ローテーブルを挟んで、美咲と向かい合った。彼女は姿勢を正し、冷たい声で切り出す。「現時点で、アタシたちに生き残る可能性はない」俺は唇を噛み、頷いた。美咲は表情を変えず、言葉を積み重ねていった。「最善の選択は籠城。でも、さっきの女性を見たわね?顎を殴られても鼻を潰されても、止まらなかった。小柄な女ですら致命的脅威よ。もし大柄な男だったら? 勝てるわけがない」事実の羅列。希望の余地は削られていく。「つまり、最善手を打ち続けてもアタシたちは死ぬ。もって……1週間ってところね」淡々としたその言葉は、絶望を告げているのではない。ただの事実確認だ。何故だろう、彼女の顔は、唇を固く結び、《重苦しい覚悟》に染まっていた。美咲は何を思いついたんだ?身じろぎすらせず、彼女に言葉を待った。美咲は俺を真っ直ぐに見つめ、言う。「そして、アンタの問い。答えは一つ」「この状況で生き延びる人間は、既に生き延びる準備をしてきた人間だけよ」「アタシたちが生き延びる方法は、生き延びる準備をしてきた人の保護を受ける、寄生する、または、乗っ取る……。それしかない。他人が作った生存の可能性に相乗りするわよ」──生き残る準備をしてきた人間あぁ、なるほど、確かに。可能性の細い道。暗闇の中、さっきまでは無かった未来に続く一本のラインが見えた。生き残る用意をしている人間は、助かりうる。その人間に助けを求める。だが、美咲は言葉を繋いだ。──乗っ取る。寄生する。助けてくれと言って助けてくれるわけがない。
美咲の血の気の失せた白磁のような頬を涙が伝う。無表情の中、目だけが僅かに揺れていた。 彼女は考えて、《死》という結論を得た。今、感情が追いついてきたんだろう。 俺は警官のいない交番を見て、ゾンビが増えることを考えて、頭で《死》を理解した。でも、まだ、感情が追いついていない。 「何とかなるさ」というカラ元気も、「きっと政府が何とかしてくれる」という希望的観測も、今は何の役にも立たない。そんな小手先の言葉では、美咲の明晰な理性の前で、慰めにすらならない。 ──あまりにも無慈悲だ 美咲が見せる絶望の涙。拭くことも、顔を覆うこともなく。俺を見ているようで、何も見ていない。・・・美咲のこんな表情、見たくはなかったなぁ。慰めたい。でも、言葉なんて思いつかない。 だから、そっと美咲を抱き寄せる。 「……助からない」 力なく引かれるままもたれ掛かる美咲を、ギュッと強く抱きしめる。 「どこにも可能性がない」こんなに熱くて柔らかい美咲の身体が、冷えて硬くなるなんて、俺には信じられなかった。でも、頭では理解している。どう動いても、死ぬ以外の選択肢が見つからない。 ゾンビに齧られて、激痛の中、息絶えるのか。停電になって冷房が無くなった部屋で渇き死にするのか。 選べるのは死に方だけだ。 ──美咲だけでも助けたい だが、状況は俺の命を使ってどうこうできる領域には、ない。 どうせ死ぬなら・・・ 「一緒に死ぬか……」覚悟もなく、考えもせず、ただ、想いが口から漏れる。俺の腕の中で、美咲がビクリと震えて止まる。言っていてなんだが、悪くない選択肢に思えてくる。昨日まで自殺願望などなかったんだがな。ゾンビにならず、あまり苦しまずに、一緒に逝けるなら。飛び降りで即死するには何階以上に登ればいいんだろう・・・? 俺の頭が死に逃げ始めたとき、美咲の声が引き留めた。 「死にたく、ない。アンタに死んでほしくない。アタシも、まだ生きていたい」 絶望の中で美咲が呟く「生きたい」。その言葉が、どうしようもなく胸を揺らす。思わず、歯を食いしばった。視界が滲んでくる。死のうかと言ったときには出なかった《涙》が今更に込み上げる。 俺だって生きたい。まだプロポーズすら・・・できていないのだ。生きたいと言い、強く俺にしがみ付く美咲の肩に顔を埋めた。涙が零れていくが
「ぶっ殺すぞ、このクソババァ!!」破裂するような怒声が窓ガラスを震わせた。真剣に暴徒の動画分析をしていた俺は、その場でビクリと跳ねた。見れば、美咲すら肩を強張らせている。さっきまで子どもの笑い声が響いていたはずの昼下がり。今はただ、威嚇する獣の咆哮だけが響いていた。美咲がしなやかな猫のように機敏に席を立ち、窓際へ駆け寄る。「下かも。見えるかな」隣に立った俺に美咲が囁く。彼女は真剣な表情でカーテンを指先でかき分け、音を立てぬように窓を開ける。2Fのベランダに身を伏せ、目だけを外に出して覗き込んだ。俺も習う。視線の先。片側2車線の大通りの向こう側。正面だ。歩道に地味な服装の小柄な女性が倒れていた。一つ結びの白髪交じりからして中年だろうか。その女性に怒鳴りつけているのは身長180センチはある大男だった。分厚い肩と太い腕。汗に濡れた顔を歪め、怒声を繰り返している。──どう見てもカタギじゃない。どういう状況だ?混乱するが目が離せない。状況が動く。四つん這いになった小柄な中年女性が起き上がり、大男に向けて全力疾走する。女の体当たりを肩で弾き飛ばす大男。後ろに吹き飛ぶ女。だが、激突の勢いに男も体勢を崩す。飛び跳ねるように起き上がった女が男に迫る。ファイティングポーズを取った男の拳が閃いた。顎先、鼻梁、こめかみ──人間なら即座に沈む急所を容赦なく狙い撃つ。女の鼻から血が噴き出し、首がねじ切れそうに顔が揺れる。鈍く重い音が続けざまに響いた。「上手いわね」横で美咲が低く
「おはよう、悟司」 ぼんやりと微笑んだ美咲。だが、その可憐さは、一瞬で消え去った。 「今何時!」 叫びながら飛び起きると、カーテンを開け放ち、外を確認する。差し込む朝の光。遠くで小鳥の声、信号待ちの車、子どもの笑い声。 「10時。外は平和だよ。見える範囲では」 俺の返事に、美咲がこちらを振り向いた。その目は問う──「見える範囲では?」と。 息が詰まる。胸が痛い。それでも首を横に振り、言葉を絞り出した。 「状況は最悪だ。調べた限り、明確に悪化している。俺にはこれからどうなるか、もう分からない」 俺の話を聞きながら、美咲は立ち上がり、冷蔵庫から昨夜の弁当を取り出した。電子レンジにかけながら、ぼそりと呟いた。 「しっかり食べて、生活を崩さない。サバイバルの基本……って聞いたことがある。守りましょう」 ご飯を口に運び、着ていたパジャマを脱ぎ捨て、黒いジャージに着替える。それだけで美咲はもう戦場モードに切り替わっている。 「さて・・・」 テーブルに腰を下ろすと、開口一番。 「これは現実かどうか。その判断は終わり。これは現実よ!」 その言葉に頷く。 「手当たり次第に調査するのは時間の無駄。最優先は安全な生存手段の確定!まずは政府対応と公式発表を探すわ。生き延びるための避難指示や対処指針を拾いましょう」 その方針に沿って、俺は、美咲と手分けして政府系のサイトから《生存のヒント》を探していく。厚労省、内閣府、警察庁。 ・・・何もない。 あるのは、危機管理局が出した「自宅待機」の指示だけ。 「そっか。今日は土曜日。政府の対応力は下がっている……国会も、省庁も休み」 画面をスクロールする手が止まる。 「あ、運休。そもそも役人の人たち、省庁に出勤できないんじゃないか?」 ──政府の機能不全 「物理的に会議を開けない。決められない?そういうのはリモートで……手軽にできるのかしら」 美咲の呟きは、虚空に溶けた。 「避難所開設の公式発表はないな。護国寺の近くに学校ってあったか?体育館だろ?」「災害時はね。でも、これは違う」 美咲が珍しく迷っている。 「悟司、どうしたらいいと思う?」 頼られると頑張りたいが、俺の凡人発想力じゃあなぁ。 「……幸い、先行事例は多い。大抵の場合、避難所、ショッピングセンター、自宅籠城、自警団の結成で
カーテンの隙間から差し込む朝の光に目が覚めた。隣では、美咲が静かに寝息を立てている。こちらを向き、毛布が規則正しく動いている。眉は凛としていて、まつ毛は長い。普段は勝ち気に光る瞳は閉じられ、今だけは可愛らしさが見て取れる。張りのある唇は柔らかく結ばれ、まるで守られるべき少女のようだ。これは、目が覚めればすぐに消えてしまう《幻》。その安らかな寝顔を、今は、壊したくなかった。 窓の外からは小鳥の鳴く声、信号待ちの車のエンジン音が聞こえてくる。まるで深夜の買い出しが悪夢だったみたいだ。暑苦しい《ツーマンセル》。あれが一夜の笑い話になればいい。いや、そうあってほしい。 祈るようにゆっくりスマホを手を伸ばす。待ち受けには午前9時08分の文字。6時間弱寝たことになる。SNSで情報収集を始めた。 ──なん、だよ、これ 加速度的に状況は悪化していた。SNSのトレンドは昨夜の事件のニュース、暴力事件も入っている。それは野球やテレビ番組の中に異物のように紛れ込んでいた。渋滞、運休の文字も踊っている。 都心ヤバすぎのSNS投稿。首都高で複数箇所の玉突き事故。通行止め。都内の路線は始発こそ動いていたが、複数の列車で車内トラブルのため、一時停止。今はまだ動いているが、断続的に列車が止まっている。 『山手線が動いては止まるを繰り返していてウケるwww』 列車が止まる。犯人は暴れて、ケガ人が感染するならその人たちはどこに行く? 警察署と病院だ。ケガ人と暴徒の対応で電車が止まる。1箇所じゃない。ポツポツそういう人がいるだけで、列車のダイヤは崩壊した。脆すぎる・・・。 『梅雨なのに東京は大雪状態w』 幹線道路の渋滞情報を見る。川越街道、不忍通り、明治通り・・・都心の太い道路が黄色、オレンジでベタ塗になっている。赤ではないから、詰まってはいない。でも、渋滞だ。複数の玉突き事故と放置車両? 放置車両ってなんだ。道路上に車だけが置いてあるってことか。 何故? 事故処理車も渋滞に巻き込まれてスタックしている報告がSNSのドライバー経由で上がっている。 『事故した人たちが乱闘中』 もう、動画を開く気にはならない。見なくても分かる。《暴徒》と一般人だろう。 いつの間にかスクロールする指が止まっていた。握ったスマホの裏側がじんわり暖かい。画面を見ているようで俺